人的資本経営の実現に重要な
ウェルビーイングな状態の可視化
2022年5月、経済産業省から発表された「人材版伊藤レポート2.0」は、中長期的な企業価値向上のための「人的資本経営」の重要性を説くものでした。
レポートをまとめた伊藤邦雄さんに、人的資本経営の本質と、それを実現するために企業が持つべきWell-beingを高める視点について伺いました。
- 伊藤邦雄(いとうくにお)さん
1975年一橋大学商学部卒業。一橋大学大学院商学研究科長・商学部長、一橋大学副学長を歴任。 2014年に座長としてまとめた国の最終報告書「伊藤レポート」は経済界に大きな影響を及ぼし、その後の日本のコーポレート・ガバナンス改革を牽引した。 「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」でも座長を務め、2020年9月に研究会の成果として「人材版伊藤レポート」、2022年5月には「人材版伊藤レポート2.0」を公表し、日本企業に対して、持続的な企業価値の向上と人的資本の重要性を説いている。
人に投資することで人材の価値を上げ、企業価値を上げていく
「人的資本経営」
現在の日本独特の雇用スタイルであるメンバーシップ型雇用は、1980年代頃までは機能していましたが、競争環境が変化する中で、さまざまなほころびが見え始めました。日本の企業は長年、「人は宝」と言い続けてきましたが、実態はどうでしょうか。本当に自分たちは宝として大切にされているのだろうか?——そんな違和感を、従業員の方々は感じ始めているのではないかと思います。
たとえば、企業はこれまで「人的資源」という言葉を使っていました。人を資源と捉えていたため、それをいかに効率的に管理するかという発想になってしまい、いつのまにか人材を「コストの塊」と見るようになっていたのです。管理の対象として見られていると、人はどうしても“やらされ感”を感じ、やりがいを失ってしまいます。
本来、人材は資源ではなく「資本」です。なぜなら、人材は企業の投資によって、価値が伸び縮みするものだからです。良い環境を提供することで、その人が力を発揮できれば人材の価値も上がり、結果として企業価値も上がります。その反対であれば力を発揮できず、人材の価値も企業価値も下がってしまいます。だからこそ企業は、人にしっかり投資することで人材の価値を上げていく人的資本経営に、大きく舵を切っていく必要があるのです。
もともと日本は資源が豊かな国ではありません。同じように資源がない国にシンガポールがありますが、人的資本投資を積極的に行っており、世界から「人的資本投資大国」と呼ばれています。対して日本企業の人材への投資額は、国際的なデータを見るととても低い。こうした現状を受け、まさに2022年を“人的資本投資元年”としたいという思いがあり、「人的資本経営の実現に向けた検討会」の開催と、その報告書である「人材版伊藤レポート2.0」の刊行へとつながっていったのです。
人的資本経営への注目が高まった理由は、もう一つあります。ここ数十年の間に、企業価値を決定づけるものが、施設設備などの有形資産から、人材や知的財産などの無形資産へと変化したことです。たとえばアメリカは、すでに1990年代には、そうした変化を経験しています。その結果、企業の人材に対する取り組みは、投資家からこれまで以上に注視されるようになりました。それまで投資家は経営者の考えと経営戦略を見て人的資本価値を判断してきましたが、いくら経営戦略が良くても、それを実行する肝心の人材のことはよく分からなかったのが実情でした。もっと具体的に、人材の配置はどうなっているのか、どのような環境で、どのように人材を育成しているのか、育成にどれくらいお金をかけ、どんなキャリアの人材が実際に育っているのか、そうした情報を投資家は欲していたのです。
日本もここへきてようやく情報開示の流れが動き出し、内閣府内閣官房に「非財務情報可視化研究会」が立ち上がりました。私が研究会の座長を務めていますが、人的資本情報の開示の指針を、2022年の秋には発表する予定です。
人的資本経営には、従業員のWell-beingを高める視点を持つことが重要
「人材版伊藤レポート2.0」では、人的資本経営を実践する上で、従業員のWell-beingを高めていく視点の重要性にふれています。では、“Well-beingな状態”とはどういう状態でしょうか。一言で表現するのはなかなか難しいのですが、「自分はやりたいことができており、時に時間を忘れるくらい仕事に打ち込めている、と思える状態」だと私は考えています。さらに、自分で自分のキャリアを組み立て、自主的に仕事を選べるキャリアオーナーシップが実現していれば、かなりWell-being度が高い状態だと思います。
企業が意識すべきは、まず、従業員のWell-beingを決めつけないことでしょう。Well-beingな状態は世代によっても大きく異なります。企業は従業員を十把一絡げにすることなく、きめ細かく、一人ひとりの状態を把握していく必要があります。そのためには、エンゲージメント調査※1やパルス調査※2を活用し、会社全体、各部門、各個人など、それぞれのWell-beingの状態を可視化していく。そして、経営者が従業員と対話を重ね、それぞれの状態や要望、キャリアの方向性などを聞き取り、できるだけケアしていくことが大切だと思います。
さらに、これからは従業員だけではなく、従業員の家族のWell-beingにも目を向ける必要性が出てきたのも重要な観点です。コロナ禍において自宅でリモートワークをする人が増え、職場と家庭が近接するようになったことで、今、従業員の公私の区別が消えつつあります。これまで企業は従業員の公私の「私」には干渉してきませんでしたが、こうしたパラダイムチェンジが起きているということも、改めて意識するべきでしょう。
また、最近よく言われるように、自分の考えや気持ちを安心して発言できる心理的安全性を確保することも重要です。心理的安全性が担保されていない組織では、人は失敗を隠すようになります。反対に、安全性が担保されていれば、その人は失敗してもすぐに周囲に相談でき、安心して仕事を進められます。しかも、話を聞いた人々は、その議論に参加することにより、共に学習できる。つまり、心理的安全性があると、個人だけでなく組織として学習できる企業になるのです。
ただし、居心地が良いだけでは駄目で、一人ひとりが自ら目標を設定し、それを越えていこうという意欲が湧いてくるような状態でなければ、本来のWell-beingな状態とは言えません。その際、会社が高い目標を押し付けるのではなく、本人が主体的に目標を設定し、会社はその達成度合いを見守り、サポートしていく体制が望ましいでしょう。
そして企業は、これまでのように従業員に一律一斉に前進することだけを求めず、時として走るスピードを緩めることも勧めるべきではないでしょうか。社内には、ゆっくり進みたいと思う人もいるでしょうし、同じ人でも今はペースを落としたいと思うこともあるはずです。高速道路でたとえるなら、本線、追い越し車線、そして登坂車線のような多様なメニューを、企業は用意していくべきだと私は思います。このようなWell-beingの視点を持った人的資本経営がうまく回り始めることで、日本企業の人的資本は伸び、結果的に企業価値の向上へと結びついていくものと期待しています。
※1:エンゲージメント調査
従業員の会社に対する愛着度を測る調査。会社と従業員、従業員同士の、関係性や信頼の度合いを調べるもの。
※2:パルス調査
従業員満足度調査の一つ。1分程度で簡単に回答できる5~15問程度のアンケートを短期間に繰り返して行うもの。
=KEYWORDS=
【人的資本経営】
人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方。海外では以前から人的資本情報の開示に向けた機運が高まっており、国内でも、2021年6月に改訂されたコーポレートガバナンス・コードにおいて、人的資本に関する記載が盛り込まれました。
【人材版伊藤レポート2.0】
経済産業省は、2021年7月より「人的資本経営の実現に向けた検討会」を設置し、持続的な企業価値の向上に向けて、経営戦略と連動した人材戦略をどう実践するか、議論を重ねました。その報告書と実践事例集を併せたものとして、2022年5月に公表されたのが「人材版伊藤レポート2.0」です。
大切なのは、その企業ならではの人材に対する取り組みの情報開示
人的資本経営に取り組むにあたり、重要なポイントとなってくるのが、人材に対してどんな取り組みを行っているのか、その情報開示方法です。企業が開示すべき情報は大きく二つあります。まず、女性管理職比率や男性の育休取得比率、離職率など、比較可能性を重視した情報です。このあたりは、すでに開示している企業も多いでしょう。しかし、もっと大切なのはその企業ならではの、独自性のある情報です。そこにこそ、企業の特色、経営者の人材に対する経営哲学が表れるからです。
例えばTOPPANさんなら、「可能性アートプロジェクト」という、障がいがある方が描いた素晴らしい絵を世の中に広めるプロジェクトに従業員が参加し、人材育成にもつなげていることが、それにあたるでしょう。このような、その会社のビジネスモデルや経営戦略とのつながりが感じられる人材への取り組み情報を、積極的に開示していくことが重要なのです。「我が社は女性を積極的に採用しています」といった紋切り型のキャッチフレーズだけでは、全く意味がありません。
メンバーシップ型雇用の限界と、「幸せ」のジェネレーションギャップ
今後、人的資本経営にどれだけ取り組んでいるかは、例えばSDGsのように、人々がその会社を評価する際の大事な判断材料になってくることは間違いありません。ですから企業は、投資家のみならず、就職を控えた学生、転職を考えている人々も視野に入れて、人的資本経営に関する情報開示の方法を考える必要があるでしょう。特に、いま注目が集まっている「従業員体験価値」に関する情報は重要です。その会社に入ったら、どんな人と会えてどんなトレーニングプログラムを体験できるのかなど、従業員としてどんな経験ができるのかをリアルに想像できる情報が求められています。
ちなみに私は、21世紀は「表現方法の競争の時代」だと考えています。同じ事業を同じ様にしている企業でも、表現が豊かな会社とそうでない会社では、ステークホルダーに与える印象も、一般の人々の評価も全く違ってくるでしょう。今後企業は、一層、表現方法を磨いていくべきだと思います。
これまで述べてきた通り、人的資本経営には、Well-beingを高める視点が欠かせません。しかし現在、世界中でWell-beingを高める取り組みを行う企業が続々と増えている中、日本企業は大きく後れをとっていると言わざるを得ません。なぜでしょうか。
その理由は、長年言い続けてきた「人は宝」という言葉に酔ってしまったからだと思います。例えば、「技術力の〇〇」と言い続けている会社では、経営陣も従業員も自分たちの企業は技術力があると思い込み続け、知らず知らずのうちに努力を怠り、技術力を失っていきます。それと同じです。
Well-beingの形は、当然、環境や時代によって変わっていきます。終身雇用制度について言えば、当時、Well-beingな側面ももちろんありました。生涯雇用してもらえれば家族も養えるし、大きな安心感につながっていたわけです。
安心感は、Well-beingの非常に重要な要素ではありますが、日本企業の場合、残念ながら悪い方向に作用してしまったようです。長く安心して働けるとわかっていると、どうしても人のエネルギーは働く期間の中で平準化します。そのため、仕事への打ち込み度合いが低下し、従業員の自己探求の姿勢が総じて弱くなってしまったのです。
私はシリコンバレーにいたことがありますが、日本の終身雇用制度のような安心感を持たない人々の、仕事への打ち込みようは凄まじいものがありました。どちらが良いとは一概に言い切れませんが、これが終身雇用制度の限界であり、人的資本経営が注目されるに至った背景の一つだと思います。
また、メンバーシップ型雇用が長く続いてきたことで、経営陣の視点にもゆがみが生じています。例えば、企業内で、低収益の部門を売却しようかという議論になったとしましょう。そんなとき、日本企業で必ずと言っていいほど出てくるのが、「売却したら、その部門の社員たちがかわいそうじゃないか。だったら、このままうちの会社で持っておいては」という意見です。
私はこれを「かわいそう文化」と呼んでいるのですが、こうした意見を持つ人は、事業を売却したらそこで働いている人が「かわいそうだ」と決めつけてしまっています。これは、なかなか怖いことです。売却しない場合、結局その部門には研究開発費はほとんど回らなくなるし、業績はさらに落ち、人々のやりがいも失われていくでしょう。これでは、Well-beingな状態とは言えません。むしろその事業をコア事業としている会社に売却し、しっかりと研究開発資金を出してくれるベストオーナーのもとで仕事を続けてもらった方が、従業員も幸せなのではないでしょうか。本当はどうしたいのか、従業員に選んでもらうという選択肢もあるはずです。
そもそも、一口に「幸せ」と言っても、それは人によって違うものです。少なくとも、世代によって「幸せ」に大きな違いがあることを、企業は意識しておくべきでしょう。現在50代以上の人々は、退職の時に「ああ、良い仕事人生だったな」と振り返ることができる、そんな幸せのために、長年様々な苦労を耐えてがんばることが多いと思います。
一方、今の若者の多くは、先に触れた従業員体験価値を企業に求めており、今の体験が自分の価値に結びつくかどうかで幸せを判断します。ですから、昔のように「5年間、この仕事を我慢して続ければ、将来良い位置につける」と言ったところで、若い世代にはあまり響かないでしょう。彼らにとっては、「今、何を経験できるか」こそが、重要だからです。
2024.07.02